■Online Journal NAGURICOM
沢栄の「さらばニッポン官僚社会」
<番外篇>現代版「北前船」「おくのほそ道」/庄内復興のカギに

(2008年7月28日)

  地方を訪れると、しばしば東京の繁栄が嘘のようだ。沈滞する地域の活性化は、現代日本が抱える最重要な課題の一つであろう。眠っている「それぞれの地域の価値」を引き出し、活用できるか否かが、いずれも地域再生のカギを握る、と思われる。
 筆者は庄内地方(酒田・鶴岡両市)にキャンパスがある東北公益文科大でことし3月まで6年にわたり教職活動に従事した。その現場体験から「庄内復興」の方策について、次のように断言できる。江戸時代に酒田を基地とした北前船の全盛期並みに庄内地方を復興するには、その素晴らしい自然環境と歴史の産物を生かすことだ、と。

 この地の自然は、神々しいまでに荘厳である。筆者はある晴れた秋の朝、酒田から車で鶴岡に向かう途中に見た光景が忘れられない。見渡す限り広がる彼方の青緑の田園に、雲間から幾筋もの白い光の束が降り注いでいたのである。しばらく目を奪われて(感動的、あまりに感動的!)と内心つぶやいたのを憶い出す。
 そういえば、320年ほど昔の1689(元禄2)年。この地を旅した松尾芭蕉も、感動に圧倒され、詠っている。例えば―

 五月雨(さみだれ)を あつめて早し 最上川
 有難や 雪をかほ(凍)らす 南谷
 涼しさや ほの三ヶ月の 羽黒山
 雲の峰 幾つ崩(くずれ)て 月の山
 語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもと)かな
 めづらしや 山を出(いで)羽(は)の 初茄子(なすび)
 暑き日を 海にいれたり 最上川

 芭蕉は2400キロに及ぶ「おくのほそ道」の全日程150泊のうち、出羽の国(現在の山形、秋田両県の大部分)で3分の1近い42泊を費やした。京都の織物の染料に使った紅花の産地、尾花沢と港町、酒田では、豪商のもてなしと集まった人びととの俳諧に興じて、思いがけず長逗留した。尾花沢には10日、酒田には往路2日、復路7日の計9日宿泊している。
 いかに芭蕉がこの地を気に入ったかがわかる。山形県内を南から北、さらに西へとうねる「母なる川」最上川と羽黒山、月山、湯殿山からなる出羽三山、山寺(閑(しづか)さや 岩にしみ入(いる) 蝉の声)が、とりわけ芭蕉の心を揺さぶったようだ。芭蕉は感動と感謝に満たされ、矢継ぎ早に名句を紡ぎ出している。

 この経緯からみても、後世の民は今の山形の荘厳な自然環境をしっかりと保存し、伝承しなければならない。
 自然には神霊が宿る―。このことを実感させる庄内の山々が、修験道(しゅげんどう)の地に選ばれたのも、納得がいくだろう。山伏たちは、出羽三山に宿る神を崇め、深山幽谷に踏み入って、その霊気の中で修行に励んだのである。
 この歴史と現実を比べてみる。北前船の繁栄と「おくのほそ道」の旅に象徴される過去の栄光は、経済が衰退し活力を失った現実によって裏切られる。北前船がもたらした江戸時代の交易を再興させ、芭蕉や山伏たちの感動を追体験してもらうには、どうしたらよいか。

 その回答は二つある、と筆者はみる。
  一つは、現在、東北公益文科大や地元企業などが秋田側と組んで進めている現代版・北前船プロジェクトだろう。これが酒田を超えて、沈滞色が濃い日本海側の全ての北前船寄港地(北海道江差、秋田、新潟、石川各県など)の再興を促すきっかけ作りをした意義は大きい。
 二つめの回答は、「おくのほそ道」の復活だ。目下、山形県と関係市町村が世界遺産の指定を求めている最上川に加え、出羽三山および秋田県との境にある鳥海山を含めた自然環境の荘厳な美と、「おくのほそ道」の文化的景観を旅のルートとして押し出すことだ。
 北前船の「海」に対し、芭蕉の「陸」を対置させる。そして芭蕉の旅ルートを道しるべで示し直して、人々を誘引するのである。
 「おくのほそ道」は現在ではことごとく舗装され、一部は自動車道に整備され、あるいは廃道ともなって、事実上、多くが消えてしまっているだろう。
 にもかかわらず、当時の「ほそ道」のよすがとなる歩行路を示して広報する。こうして「旅人」人口を着実に増やして、少子高齢化して若者が流失する地域社会に、新しい息吹を吹き込むのだ。
 海と陸双方の豊かな資源とその歴史的産物を現未来に生かす―このシナリオに沿って、定年を迎えた団塊世代はもとより海外からも旅人を陸続と引き寄せ、かつての出羽の国の賑わいを取り戻すのである。(山形新聞7月25日掲載)