NAGURICOM [殴り込む]/北沢栄
■Online Journal NAGURICOM
沢栄の「さらばニッポン官僚社会」
<番外編>
君は「君が代」を歌えるか

君は君が代を歌えるか
歌えない
なぜなら、
歌って気分が晴れないから
歌は強制されては、
歌えない うつむくだけ

いまなぜ日の丸・君が代の法制化か

 いまなぜ、日の丸・君が代の法制化を急がなければならないのか。小渕恵三首相はことし二月の時点では「法制化については考えていない」と明言していた。それが六月末の衆院本会議では、質疑の中で「慣習として定着してきた国旗・国歌を成文法で明確に規定することが必要と考えた」と前言を翻している。
 なぜ、首相の態度は豹変し、日の丸・君が代を法制化しようとする国旗・国歌法案が、唐突に今国会の最重要法案の一つに浮上したのか。
 この間に、政局に一つの顕著な変化があった。そして、この変化ゆえに絶好のチャンスと把えた政府・自民党は、日の丸・君が代の法制化に突き進んだのである。
その「変化」とは「自自公」成立の見通しだ。公明党の変節が、法制化に向け逡巡していた与党をひと押しした。ガイドライン法案に始まり“盗聴法”案に続く国旗・国歌法案の提出は、「一連の流れ」と把えなければならない。それは、国民の間で議論が分かれて決まらなかった重要問題を、公明党を閣僚の一角に抱き込むことで「数にモノを言わせて」一気に片付けてしまおうとする過程である。

ヒビ割れた国家再興の試み

 政府・自民党の取った一連の法的措置は、ひと言でいえば九〇年代に入って崩壊と不安の度合いを深めるヒビ割れた国家を再興させようという試みだ。
 背景には、金融の慢性恐慌に始まり、マイナス経済成長を続け、いまなお脱出口の見えない経済危機がある。戦後最悪の三百万人を超えた失業者と年間三万人を上回る自殺者の数は、この国家危機の深刻ぶりを物語る。
 日の丸・君が代は、この危機のさなかに燃え広がったナショナリズムの大事な象徴である。この「国の象徴」を法律という強制力をもって、とくに教育の現場で若者たちに繰り返し反復認識させよう、というのが法制化の狙いなのだ。「象徴」を視覚、聴覚を通じて再三再四、脳細胞に刷り込み続けることで一種の洗脳が施され、若者たちに国家との同一意識と国家意思とが植え込まれる。
だが、この「洗脳化」は個人の内心への侵入と操作を伴うから、個人の思想の自由を侵して思想を「国家の枠」の中に閉じ込めようとする。この国家による個人の精神への干渉は、戦前のファシズム時代への回帰にほかならず、戦後教育の否定なのである。戦後の保守政権が、やりたくてうずうずしても国民の合意が得られないためにできなかったことに、ようやく乗り出したのである。

「平成翼賛会」成立の見通し

 保守政権にとってそういう情況がなぜ、訪れたかといえば、数でモノをいわせることに民主主義原理が存在すると錯覚するポリティシャンにとって、「自自公」による数量で議会を支配できる可能性が現実のものになったからだ。かつての大政翼賛会に匹敵する、「オール与党」に等しい「平成翼賛会」成立の見通しが開かれたからだ。
 平成翼賛会は大政翼賛会と同様に、深刻な国家的危機を背景に、国民の団結を求める。それだから、日の丸・君が代がシンボルとして重要になる。戦前と同じく、国民結集によって国家的危機(堺屋太一・経済企画庁長官のいう「国難」)を打開しようというのだ。
 そして、国民結集のためには、いずれは必然的に「非国民」は排除しなければならぬ・となる。日の丸・君が代法制化が成立したあとの段階では、おそらく国民総背番号制の国民管理下で“盗聴法”を根拠として電話、インターネット、ファックスの盗聴による「非国民」探しが始まることだろう。その大義名分は「国家の安全(ナショナル・セキュリティ)」のはずである。
話を少し前に戻そう。バブル経済の破裂と共に始まった「この国のかたち」の崩壊は物心全面に及ぶものだった。いみじくも、「第二の敗戦」と呼ばれるくらい、日本の根幹システムの無力化は「失われた十年」の間に、地滑り的に進んだ。それは、冷戦構造の一方の雄だったソ連邦の共産主義イデオロギーと社会主義システムの全面崩壊にウリ二つの現象であった。

経済大国・ニッポンの凋落

 八〇年代の終わり、米ニューヨークの中心部、ロックフェラーセンターやハリウッドのコロンビア・ピクチャーズを買収した経済大国・ニッポンの凋落(ちょうらく)ぶりは、「みじめ」というほかない。金融秩序の崩壊に始まり、大蔵省を頂点とする日本型システムの破綻にまで行き着いた。この間、政・官・業のもたれ合いとトップ・エリートの腐敗がスキャンダルとなって噴出した。社会構造のゆらぎと共に、社会の共同体の場でも解体が広がった。少年犯罪、学級崩壊、家庭内暴力、中高年と十代の自殺などなど。経済大国がタイタニック号のように沈没する予感が、国民の誰の胸にもよぎったのである。
 こういう不安な現実は、「強い国家」への郷愁をかき立てずにはおかない。それは国家意思の強化に向かい、対外的にはより強力な政治・軍事パートナー(米国)との関係緊密化(つまり従属化)、対内的には国家思想の教育を目指す。その延長線上に「日の丸・君が代」があるのである。
 法制化された場合、学校教育の現場で何が起こるか。これまでも「指導」という名の強制があったからこそ、日の丸掲揚と君が代斉唱の職務命令を出す校長と教職員の間で摩擦があり、広島県立高校の校長が自殺する事件を引き起こしている。特に天皇讃歌の君が代に教職員らの抵抗感が強い。
ならば、法制化された場合、これまでの「強制」はさらに強まる、と考えるのがふつうだ。政府は国旗・国歌法案に尊重・義務規定を盛り込まなかったことを挙げ「基本的に法制化で国民生活に何ら変化や義務を生じ、影響を与えるものではない」(野中官房長官)という。だが、法律に明記されれば、「学習指導要領」以上に強制が正当化されたとして、文部省→教育委員会→校長のルートで強制力が以前よりも強まり、事件・事故がむしろ多発するのは必至だ。学校の公式行事での日の丸の掲揚率、君が代の斉唱率を公表して実施を競わせる事態は、当たり前になることだろう。

新しい国歌を募集、国民投票で決めるべきだ

 だが、君は君が代を歌えるか。天皇主権でもないのに、天皇の代を讃える気になれないばかりでない。テンポが異常にのろく、メロディーが異常に古臭いのだ。
 音楽家によれば、音階の並べ方は「中世の音楽」並みで他国には皆無の代物だ。五音階を基本にした雅楽ふうの旋律が、ひどく時代遅れの響きを感じさせる。曲中「さざれ石」と続けるべきところを「さざれ」で切れてしまう音楽的欠陥もある。
 もしも政府が二十一世紀に向けた国歌を考えるなら、オーストラリアのように国民に呼びかけて新しい国歌を募集し、コンクールを開いて国民投票で決めるべきであろう。ところが、日本では歌詞の解釈を都合のいいようにこじつけて歌詞もメロディーもそのままにして法制化しよう、というのだ。大日本帝国下の戦前・戦時にも法制化されなかった君が代を国会の会期を延長しても成立させようというのである。


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