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沢栄の「白昼の死角」
第228章 三陸復興、リバウンドに手応え / 気仙沼に熱い息吹

(2023年12月27日)

インドネシア人が漁の主役

東日本大震災からの復興が、防潮堤など社会インフラの整備を終え、いよいよ地域社会の活性化に踏み出す展開段階に入った。巨大津波に襲われ、1400人超の死者を出した宮城県気仙沼市がその好例だ。世界3大漁場の1つ、三陸沖を見渡せる日本有数の漁港の街は今、漁業・水産物加工業の現場を支える多くのインドネシア人を基盤に国内移住者の若者も加わり、活力を取り返しつつある。
「去年、体重150キロあるメカジキをモリで仕留めた。漁は20人で回しているが、日本人は幹部のみ。船員はインドネシア人で、彼らがいないとやっていけない」。気仙沼の魚市場に近い居酒屋「ぴんぽん」。11月中旬の夜、筆者が取材でここを訪れると、店は旨い魚料理と酒で歓談する漁師たちで賑わっていた。隣り合わせたカジキ漁師の内海博文さん(51)が、地元漁業の内情を明かした。

インドネシア人がマグロ漁に入ってきたのは、25年くらい前だが、今では地元漁業と水産加工業を担う主力部隊だという。気仙沼市震災復興・企画部の糟(かす)谷翔主査が、インドネシア人の果たしている役割をこう語る。
「外国人船員は200人ほどで、全体約300人の3分の2。その大半がインドネシア人で、このほかに水産加工業に従事する外国人500人ほどのうち、約280人をインドネシア人が占める」
漁業・加工関連の主要な担い手になっているのだ。しかも水産加工の技術修得を目指す技能実習生は、10年くらい前から右肩上がりで増えているという。人口減少が続く中、一条の光が東南アジアの友好国から射し込んだ形だ。

明るい材料はまだある。20代の若者の移住がジリジリと増えてきたことだ。水産物の加工関連業者が集まる「気仙沼水産資源活用研究会」。この事務局で2人の20代女性が働く。女性の1人は2年前、もう1人は今年4月の入社で、いずれも総務省が立ち上げた「地域おこし協力隊」として仙台や群馬県から移住してきた。前出の内海氏によれば、東京から27歳の男性が今年7月、サラリーマンを辞め、移住してきて船乗りを選び、遠洋マグロ船に乗って海に出て行った。大都会を捨て、海を行く生活に転じたのだ。

漁獲も震災後最高

いい兆しは漁獲面にも表れた。気仙沼魚市場の2023年の年間水揚げ金額は、11月半ば時点で震災後過去最高だった2017年(1〜12月)の212億円を上回る218億円に達した。日本1の水揚げを誇るカツオやビンナガ(小型マグロ)が好漁で、1本釣り船と巻き網船で全体の6割を上げる一方、釣り針を無数に付けた近海マグロはえ縄船もメカジキやサメ類の高値に支えられ、売り上げを増やした。サンマ、サケは海流温暖化の影響もあって不振続きだが、アンバランスな漁獲ながら、全体としては前年の落ち込みを大きく上回った。水産業を基幹産業とする気仙沼復活を予感させる動きだ。

気仙沼が日本1の水揚げはカツオ、メカジキ、サメ(フカヒレ)。カツオは2023年に「水揚げ27年連続日本1達成」が確実な見通しだ。フカヒレは9割以上が東京など関東向き。福島第1原発からの処理水の海洋放出に対する中国の対日輸入規制の影響はどうか。市当局によると、中国向けは輸出ストップの状態だが、他国向け輸出が伸びる中、その影響は軽微という。

「(震災復興後のリバウンドに向けた)手応えはある。次のステップに移った」と、先の糟谷氏は明言した。
高齢化と人口減に対処するには、内外から若者を呼び込まなければならない。これが全国の地方自治体の共通認識だ。外国からの「若きよき人材」をどう確保し、つなぎ留めるかが、一大課題となる。

<写真>気仙沼市魚市場 メカジキ仲買
出典:気仙沼観光推進機構

外国人材を安定確保

大震災から12年9カ月余―。三陸沿岸各市町の新防潮堤は、長く高くどっしりと聳え立った。仙台と青森県八戸を南北に結ぶ359キロの三陸沿岸道路(復興道路)と、東北自動車道・三陸沿岸道を東西に結ぶ4つの復興支援道路も全て開通した。
死者約1600人を出し、津波の被害が最も大きかった街の1つ、岩手県陸前高田。「防潮堤の建造・土地のかさ上げ・住宅の高台移転・道路や上下水道敷設」などを経て「インフラの整備は全て終わった」と市当局はみなす。三陸沿岸南部の宮城県南三陸町。リアス式海岸の地形で津波の勢いが強まる。死者は約800人に上った。3階建て防災対策事務所も、高さ17メートル超の津波に屋上まで呑まれた。中にいた24歳の女性スタッフが居残り、住民に「高台に避難して下さい」と最後まで防災無線で叫び続けた光景が、記憶に生々しい。その近くにあった「さんさん商店街」は、今では土地を10メートルもかさ上げして再建された。

三陸海岸地図
出典:Google map

三陸復興のハード面は完了し、いよいよ経済リバウンドの第2段階に入ったといってよい。気仙沼の場合、経済再生の道筋は、はっきり見えてきた。メインテーマは、若い人材の内外からの移住と定着だ。強みは、30年近く続いたインドネシア人との良好な関係である。
毎年行われる市の「8月祭り」には、20年前からインドネシア人を呼んで「インドネシアパレード」を開催している。22年にはインドネシア技能実習生らとの交流バドミントン大会も開催。23年11月の第2回目には双方から約40人が参加した。
こうした気運の高まりを背景に、11月にはインドネシアと日本の国交65周年を記念して、インドネシア中央銀行と駐日大使館が主催して「インドネシアナイト in Tokyo」を開催。菅原茂・気仙沼市長がインドネシア駐日大使から「アンバサダー賞」を授与され、両国の友好と今後の協力が再確認された。

友好には積み上げの歴史があった。大震災直後の11年6月、インドネシアのユドヨノ大統領が気仙沼を訪れ、仮設住宅で被災者を励まし、災害復興資金200万ドル(当時1億6千万円)の寄付を表明している。市は壊滅した市立図書館の建設費にこれを活用した。
人口の過疎に悩む自治体にとって、大いに参考になる国際交流関係である。気仙沼が「外国人労働力の持続的導入」の難問に、ブレイクスルーをやってのけた格好だ。

水素の町づくり進みだす

震災復興といっても、原発事故の直撃を被った福島県の被災地は状況が大きく異なる。最も被害が深刻だった東京電力福島第1原発のお膝元の双葉町と大熊町。福島県内で発生した放射能汚染廃棄物を30年にわたり保管する中間貯蔵施設と、40年以上かかるとされる第1原発の廃炉作業が復興に陰を落とす。事故で全町避難となったが、今は一部地域が避難解除され、戻ってきた若者らが復興に手を貸す。
双葉町に立派に建てられた東日本大震災・原子力災害伝承館。多くのビジターが訪れ、災害の実像を見て回る。原発事故に関して東電の立地・運営責任を取り上げていない説明については今後修正する必要を感じたが、見て回って事故の恐ろしさは十分に体感できた。原発足下の双葉郡を原発事故の記憶保存と原子力エネルギーに関する思考の現場として位置付け、国際的な拠点作りを進めていくべきであろう。

未来志向の水素エネルギー技術でようやく花開いてきた感があるのが、浪江町だ。被災地域の復興に向け、国と県が新たな産業創出を目指した「福島イノベーションコースト構想」の要の1つが、水素エネルギー。浪江町産業振興課によると、町役場をはじめ水素エネルギーで発電された電力を道の駅など町内各所で既に使っている。
浪江町は「水素タウンづくり」を目指し、関係有力企業の協力を得て町内の産業団地に設立した「福島水素エネルギー研究フィールド(FH2R)」が計画を推進する。水素利用の取り組みに参加する企業はトヨタ、東芝、大林組、旭化成、ブラザー工業、日立、丸紅、住友商事など多彩だ。完成した世界最大の水素製造装置から供給された水素エネルギーを輸送する方法に関しても技術の実証が進む。水素輸送のパイプラインを地中埋設せずに、地上で電柱に架けて行い、低コスト化を実現する狙いだ。
23年4月には、計画の司令塔となる特別法人「福島国際研究教育機構(F-REI)」が設立された。イノベーション構想を加速させるためだ。第1期(23年度)から2029年度までの7年間の中期計画によると、事業規模を1000億円程度に拡大し、研究開発と産業化・人材育成の2つの機能を増強していく。
2023年度予算は126億円。主な研究内容は水素エネルギーのほかロボット、ドローン、放射線科学・研究、原子力災害データの集積・発信など。

元町民で隣りの南相馬市から「道の駅なみえ」に買い物に来た30代の主婦が、復興への期待をこう語った。「水素タウンは夢を呼ぶいい話。若い研究者も入って来ている。でも今町に一番必要なのは、病院かな」
原発事故という負の遺産を教訓に、新たな正の遺産をどこまで増やし蓄えていくか、その方向へさらに一歩踏み出された。

<写真>福島水素エネルギー研究フィールド(FH2R)
出典:国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)