■Online Journal NAGURICOM
沢栄の「さらばニッポン官僚社会」
第168章 原発再稼働、正反対の2地裁判断/どうなる最高裁対応

(2015年5月20日)

原発の再稼働を巡り差し止めを求めた住民の仮処分申請に対し、4月に二つの地裁から正反対の判断が示された。 福井地裁の樋口英明裁判長は、関西電力高浜原発3、4号機は「安全性が確保されない」として住民の訴えを認め、運転差し止めの仮処分を決定。一方、鹿児島地裁の前田郁勝裁判長は九州電力川内原発1、2号機の差し止め申請に対し、住民の訴えを却下した。判断が分かれたのは、原発再稼働の可否を決める原子力規制委員会が作った新規制基準に対してだ。

福井地裁は、新基準そのものを「緩やかすぎ合理性を欠く」と認定した。その理由として、原発の耐震設計で想定している最大の揺れ(基準地震動)を超す地震に05年以降、福島第一など4原発で5回見舞われた事実を指摘、新基準に適合しても「原発の安全性は確保されない」と判断した。想定を超える地震は繰り返し起こっており、原子力規制委の新基準はそもそも甘い、というのだ。
鹿児島地裁はこれとは逆に、新規制基準を「専門的知見がある規制委によって策定されたもので、その内容に不合理な点は認められない」とした。4原発を襲った「基準地震動」を超える地震の発生は認めたものの「原因とされる地域的な特性を考慮している」と規制委を全面支持し、九電の対応にも及第点を付けた。これは規制委の専門的知見を尊重した判断で、これまでの最高裁判決に沿う伝統的な“原子力は専門家にお任せ”の考えに立つ決定といえる。
原発訴訟の司法判断は、1992年の四国電力伊方原発訴訟の最高裁判決がベースとなる。つまり、安全性の審査基準が合理的で専門家らの審査や判断過程に「見過ごせない誤りがない限りは合法」とする判断だ。
両地裁のどちらの主張に説得力があるか。

二つの判断の違いは、原発のリスク評価から来る。そこから肝心の新規制基準について判断が分かれたのだ。
まず鹿児島地裁決定から見てみよう。川内原発はすでに原子力規制委員会(環境省の外局として2012年に設立)の新規制基準に基づく審査に合格し、地元自治体の同意手続きも終えて今夏にも再稼働する見込みだ。
決定は「安全性の確保に関する専門的知見を有する原子力規制委員会によって策定されたもので、その策定に至るまでの調査審議や判断過程に看過し難い過誤や欠落があると認められない」とした。火山の影響についても、同様に「不合理な天は認められない」。周辺自治体の避難計画に関しても「一応の合理性、実効性を備えている」と再稼働を後押しした。
決定は、前述した最高裁判決を受けた従来型の判断と言える。最高裁はこの判決で、安全審査に関し専門家の意見を尊重して行う行政の合理的な判断に委ねるべきだとし、行政の裁量権を大幅に認めた。
これに対し、福井地裁は最高裁判決を踏み越え、原子力専門家が作った国の新規制基準を否定した。新基準の合理性と安全性を否認した上で、想定を超える地震が来ないとの根拠に乏しく、冷却機能喪失による重大事故が生じうるとし、原発運転を直ちに差し止める初の仮処分を決めたのだ。

これにより、政府が「世界で最も厳しい」と自負する新規制基準が根底から問い直される。樋口裁判長が強調するのは、重大事故が人格権(人間として平穏に生活を営む権利)を侵害する具体的な危険だ。自身が指揮した昨年5月の関西電力大飯原発3、4号機の運転差し止めを命じる判決(現在、控訴審で係争中)でも、大飯原発から250キロ圏内の住民の人格権を侵害する具体的な危険を指摘した。
この時は「原発稼働が電力供給の安定性、コストの低減につながる」との関電側の主張に対し「極めて多数の人の生存そのものに関する権利と電気代の高い低いの問題を並べて論じるような議論自体、法的には許されない」と批判。「原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失と言うべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失である」と指摘した。

東京電力福島第一原発の過酷事故を受け、原発リスクを巡り裁判所の判断が二つに分かれる状況がこれで鮮明になった。事故の反省を踏まえ、司法の流れがどう変わっていくのか―これまで高速増殖炉「もんじゅ」設置許可無効判決(名古屋高裁金沢支部)など数少ない住民勝訴を、いずれも逆転させ退けた最高裁の対応に焦点が移ってきた。